八代市の干拓の歴史(すんげぇ~~)

フリーマン

2010年05月24日 15:35

やっと雨も上がりましたね^^


でも風があります(ToT)/~~~



明日が天気でこの風が吹いていたらと思うと・・・・・・クッシュン・・・ズルズル







今日は朝から6月のバースデェーカードを印刷していたのですが、印刷ミスの連続で疲れました(T_T)




先月も60枚位ミス印刷しているのに気付かず・・・・・


普段の三倍の時間が掛かりました(T_T)







今日も朝から・・・やってもうたぁーーー(>_<)


朝からスタート失敗です(涙)








昨日はお気に入りの映画について書かせていただきましたが、ストリート・オブ・ファイヤーはぜひぜひ見て欲しい


作品です^^





さて今日は八代の干拓の歴史についてなんですが、皆さんは現在の3号線(インター付近)も海岸線だったと


ご存知でした??




なんと八代市の2/3は干拓なんです。

その歴史は江戸時代まで遡ります。




長い年月と労力で今の八代平野の姿になった事!!


私は不思議で不思議でたまりませんでした(?_?)


いったいどんだけぇ~~の事したら今の姿になったのか!!




(参考資料から)

球磨川の治水
   加藤清正が球磨川を


 
☆清正登場


 小西行長は天正16年(1588)に肥後の南半分4郡(宇土、益城、八代、天草)二十四万石を秀吉から与えられ、加藤清正が治めるまでの13年間この地の領主であった。しかしその間は度重なる戦い等で治水・かんがいは殆ど行われていない。
 清正が慶長5年(1600)に肥後全領(球磨を除く)を治めてから慶長16年(1611)に亡くなるまでの11年間に、治水、かんがい、干拓は大きな前進を遂げた。
 遥拝の瀬に八の字堰  
 球磨川が山間部から八代平野に出るところに清正は治水・かんがいの大工事として大堰の建設に とりかかる。清正以前にここには杭瀬という木の杭を川の中に並べて打ち込んだものがあった。 清正はこれを大きな自然石や割石を使って、強固な石堰にした。

 川の流れが早いので、両岸から上流に向かってななめに大石を置き中央は開ける。その石積みの 長さは両岸合わせて、約800メートルにも及び、中央部は約40メートル程開いている。平面的に みると上流に向かって八の字形をしている。ここからこの堰を「八の字堰」又は地名をとって 「遥拝堰」という。中央部が開けてあるのは洪水時に水が流れやすくすると共に、平常時には舟や 筏が通れるようにするためである。また、川底から積み上げられた石堰の両川岸には、流れ込んだ 水流を引いてかんがいの水路とし広大な農地が潤った。(現在の堰は昭和48年にコンクリート 堰になり形状は変わっている)
 堰の下流、平地部における川岸は洪水時には激しい流れとなる。八代の城や町を守るために萩原 堤などが河口まで連続して築かれた。堰のすぐ下流では川は左に大きくカーブを描く。水あたりが 強くなるので、その湾曲部に石ハネとして水制工が数多く造られた。堤の上には、松が植えられ、 萩原堤は松塘ともいわれたという。



☆八代平野をつくる


 八代平野の3分の2程は干拓によってできた土地。清正は、八代の北、千丁町(現八代市)の新牟田あたりを干拓し球磨川から水をひいて農地を新たにつくり、後世に続く干拓は現在の八代平野を形造った。八代平野の基礎を造ったのが清正である。
 清正は、球磨川の洪水に備え、水を利用する堰や水路を造った。その水は、洪水が収まった地や新たに干拓した土地に導かれた。海には長堤(沖塘)を築いて干拓し、新たにできた農地には県北の玉名郡から百姓を移した。新牟田村という地名は、開拓が先行していた菊池川河口部小田牟田新地などの出身地をとって名づけたものといわれている。
 干拓地には生活用水も潅漑用水も新たに必要となる。八の字堰(遥拝堰)から分水された水は、豊富になり新たな干拓地に導かれた。このための用水路の維持は重要であり、清正は新地の、この井樋(井手)に門番を置いた。そして「もし井樋をきずつける者があれば、これで討ち捕るべし」とし、門番に帯刀を許したのである。




☆干拓の祖 鹿子木量平



鹿子木量平は、宝暦3年(1753)飽田郡鹿子木村(北部町)に生まれました。熊本古城を築き歌人としても有名な鹿子木寂心(親員)を祖先にもつ名門の出である量平は、安永2年(1773)父のあとを継いで21才で村の庄屋となりました。庄屋時代は天明の大飢饉(天明3年1783)のとき村民を飢えや寒さから救い、寛政4年(1792)の雲仙岳が地震で崩れて、肥後の海岸に大津波が押し寄せて多くの死者が出たとき、民衆の救済に力を尽くして藩から表彰を受けました。寛政9年には民政の才能を認められて杉島手永(富合町、城南町など)の惣庄屋に任命されて活躍の場を広げ文化元年(1804)には野津手永(竜北町、鏡町など)の惣庄屋に転任となりました。

野津手永は、当時条件が悪く貧しいと言われた所であったので、量平は財政を建て直して農民に働く場を与えるために手永の海岸に干拓新田(新地)を築くことにし、文化2年に先ず百町新地の築造に成功、その収穫から毎年三百三十石を郷備米として蓄えることにしました。のち2回他の手永に転勤して益々民政に努力し、何回も藩の表彰を受けましたが、文化14年再び野津手永の惣庄屋となり、藩が計画した八代郡大牟田沖新地の築造に着手して、新田三百三十町歩(千丁町古閑出)を文政2年(1819)に完成しました。その広さから四百町新田と呼ばれ毎年多くの年貢米が納入されるようになりました。

この成功に気をよくした藩ではさらに宇土、下益城、八代三郡にわたって二千六百町歩におよぶ大干拓新地造成計画を立てて、量平を責任者に任命しました。量平は第一段階として百町新地と四百町新地の全面に七百町新地を文政4年(1821)に完成せしめました。これは肥後藩最大の新田であるが全国的にみても大規模なものでここから毎年二千四百石余、塩千六百石余の年貢が納入されるようになりました。

鹿子木量平は天保12年(1841)に89歳で没しましたが、墓は百町、四百町、七百町の三新地の接する場所に建てられ、隣地に彼を祀る文政神社があります。「藤公遺業記」は藩命によって彼が著したものですが、自分の事業の成功も神恩によると記しています。




「八代地域振興局」に行けば閲覧させてもらえるそうなのでいつか尋ねてみたいと思います^^


ネットで調べてみましたので参考資料としてご覧ください(^◇^)




☆やつしろ干拓の歴史文化


PDFファイルをダウンロードして頂くとカラー画像で詳細をご覧いただけます!!
         ↓
http://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/life/1000320_1000367_misc.pdf




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